記 念 講 演


エコロジー哲学:倫理と教育
−人と人、人と自然をつなぐ価値の架け橋−

アラン・ドレングソン(カナダ・ビクトリア大学教授)


要 旨
 文化の多様性に基づくエコロジー哲学(エコ哲学)は、この地球という惑星の住民としての人間の全体状況を包括的に捉えようとするものです。他の人間や自然の世界と私たちひとりひとりの関係に現われる私たち自身の価値が、ここでは探究の対象になります。全体像を捉えようとしないなら、問題の些末な部分にとらわれ、その本質を容易に見逃してしまいます。環境価値教育は、人間の文化と文化、人間と他の生物の間に共生/協同的な関係を育てるものでなければなりません。エコ哲学は、価値、文化、社会、生物、それぞれの多様性の真の価値を理解しこれを尊重するものです。エコ哲学の探究は、その究極目的であるエコロジカルな智恵(エコソフィ)に私たちの目を開かせてくれるものです。
 文化的なあるいは生物的な境界を超え私たちが関係を育て意思を通わせることのできるのは、さまざまな文化と文化、人間と自然をつなぐ多様な架け橋が存在するからです。エコ哲学はこのような多様な架け橋を探究の対象にする、という言い方もできるでしょう。こうした架け橋のなかには、私たちの先達が、たいへん複雑な状況のなかに見い出し創り出した共通理解や認識といったものがあります。環境倫理教育は、このような先達の営みを集大成した核心的な言説、さらにそれぞれにユニークな文化的・生物的多様性をつなぐ相互関係性といった面から、理論をつくり実践できるものです。
 エコロジー哲学の探究は、銀河系外からやってきた哲学的素養を備えた優秀な科学者の地球探索に似ています。その任務は、さまざまな惑星に見い出せる種々の文化や相互関係を観察し記録することです。宇宙から見ると、地球はすばらしい星に見えます。いろいろ観察してみると、地球上の生物や文化は実に複雑で豊かな多様性を持つことが分かります。地球の豊かさは太陽系の他の惑星に比べようもない驚くべきものです。この科学者たちの目的が新しい惑星への移住であるなら、どこに着陸しどのような生活を始めればよいのか、決めなくてはなりません。どのようにすれば、この惑星の生態系を乱さずに食料など必要な生活物資を手に入れることができるのでしょう。どのようにすれば、この地球生態系に調和的に入り込むことができるのでしょう。自然の景観に融け込み、地球生態系や人間社会の責任ある一員になれるまでには、どれくらいの時間がかかるのでしょう。
 これらの問いに私たちは新しいものの見方を持つ探究者の立場で向かうわけですが、そこにはやはり個人的な、さらにまた文化的な背景が関わらざるを得ません。エコロジカルな価値のための教育には、人間が置かれている状況を全体的に捉える視点が不可欠です。ここで検討の対象になる価値の中で最も狭いものは「自我中心的」なものです。これは、自分自身や自分と他者との関係を単に道具的価値(手段としての有用性)の面からしか見ることのできない立場です。成長に伴い、人間はこれより広範な価値やものの見方、目的を持つようになります。他者と自分が分かち難く結びついていること、自分の生命が他の多くの生命に支えられていること、自らの生命を維持するためには他の生命を食さねばならないこと、こうしたことを徐々に理解できるようになります。自分の世界が自分の家族から自分の文化へと広がり、さらに人間全体に広がり、ついには他の生物までを含むより大きな協同体へと広がっていくのです。このように、自我中心的、自文化中心的、人間中心的な価値からすべてを含むエコ中心的な価値に向かって広がっていく探究の営みを「包括的価値探究」(Comprehensive Values Inquiry)と呼んでいます。
 包括的価値探究では、決してあきらめることなく深いレベルの問いが発し続けられます。ここでは人間社会内部のあるいは人間社会と生態系に関わるさまざまな価値体系が検証されます。多様な価値体系が、地球全体を視野に入れた一群の価値と対比され、評価され、吟味されるのです。この評価の尺度になる本質的な価値は、私たちが旧来の狭い枠にとらわれず他の人間、生物、文化との関係に意味を見い出していった時、私たちの前に姿を現わすものです。このような探究を自分自身の状況や背景を深いレベルで検証することから始めることもできます。このような検証が十分になされた時には、文化的、生物的な違いにもはやとらわれることなく、文化や生物の多様性の価値が真に理解できるようになります。人間は誰しも自分だけの関係の網、営み、場、存在のあり方を独自に持つものですが、これらの関係は本質的に文化や生物の違いという壁を超えた協同的なものなのです。 私たちはあらゆる次元で相互に関係し合っています。私たちの背景も重層的で、例えば、大きな場のなかに小さな場があり、またそれが繰り返されるというように、場や存在や来歴はすべて入れ子構造になっていて、それらが一つに織り合わされて次々とより大きな状況をつくり上げているのです。このような認識を全体のエコロジー(生態学)と呼んでもいいでしょう。私たちの自己は、自分の全経験、全状況、全経歴を反映した価値が複雑に絡まりあったものと言えます。自分たち自身の生の軌跡を私たちはより大きな文脈のもとで理解します。コミュニケーションの手段が発達した現代において、私たちの生の軌跡は以前よりも他の文化を背景に持つ人々の軌跡と結び合うことが多くなっています。
 私の祖先はノルウェー人ですが、私自身は北アメリカの平原農村部と北西太平洋岸に生まれ育ちました。書籍や旅行を通じ、これまで多くの文化について知ることができました。大地や自然を敬い、スキー、登山、キャンプ、ボートといった野外スポーツを愛することでは、自分の祖先にひけを取らないつもりです。私の先祖にあたる人々は、探検家であり、また開拓者でもありました。徒歩や馬、あるいはボートや車で実に広大な大地を動き回りました。遠い祖先は古代スカンジナビアの異教徒でもありました。より下っては、福音主義ルター派に属していました。19世紀になり、私の祖先はノルウェーを離れ、新しい農地を求めて北アメリカ、ダコタ平原に移り住みました。私の家族はさらに太平洋岸に移動しました。太平洋岸に来て、山や海は私にとり親しみの感じられる身近な存在になりました。けれども、私の祖先はノルウェーの海や山に生きていたわけで、もともと海も山も私のなかに存在したのだと言えます。直接に触れる前から、海や山は私の一部だったのです。1960年代になり、私ははじめてノルウェーの地に足を踏み入れました。ノルウェーに残っていた親戚と直に会い、祖先の記憶と私自身の記憶が一つになりました。北アメリカの西海岸に移り住んでからは、主に日本や中国といった東洋からやってきた人々と出会う機会がありました。第二次世界大戦中は、毎日、反日宣伝にさらされることになりました。
 さまざまなところでさまざまな形で耳にした多くの事柄すべてが、私の全経験の一部となり、これが他の人々や場や自然と私の関係における自己像を形成しています。長い時間を費やし、時にはひとりで、山や谷や平原を歩き回りました。同好の友人と共に、大平原、湖、森や山を探索することも大きな喜びでした。学んだ大学はすべて都市型の大学でしたが、自然科学と哲学を専攻分野に選び、古代ギリシャ、ローマ、中東の文化が持つ価値を意識的に身につけようとしました。やがて、哲学的な発問、分析、議論、創造的総合などの手法を身につけ、東西の哲学を研究するようになりました。太極拳や合気道といった中国や日本に起源を持つ瞑想術も実践してみました。教えてくれたのは東洋からやってきた先生です。カナダやアメリカ合州国の森林地帯で開拓者がどのような価値を持ち生活をおくったかという研究に没頭したこともありましたが、ノルウェーの伝統芸術や文化遺産の研究にも懸命に取り組みました。環境保全運動にも関わり、大学では環境関連科目を担当しました。35年にわたり、大学で哲学を教え、研究をし、論文や本を出版し、専門誌の編集をしてきたわけです。人間と生物と環境とが一体化した協同体に関し土地に根差した知識を持つ人々と知り合い、ともに仕事をすることもありました。エコフォレストリー(エコロジー林業)協会をはじめ、エコロジカルな責任の持てる生活や仕事のあり方を実現しようとするさまざまな団体や組織の設立にも関わりました。これまでにお話してきたことは、文化の壁を超えた私の世界観を形成する要素の一部にすぎません。
 この私の個人史は、日常生活において複雑に絡み合う諸要素が、どのような形で、深いレベルの地球と人間の歴史や地球上のさまざまな地域や文化に根差した価値と交わり合うかという一つの例としてお話させていただきました。私たちひとりひとりが根差した特定の土地が独自の豊かな価値を持つことは明らかなことです。しかし、そこには同時に他の地域や人間以外の存在に起源を持つ価値も反映されているのです。
 自己理解というものは、自らの成長のあとを振り返り、その過程でどのような影響を受けてきたかを考えることで深めていくことができます。エコロジー哲学の究極的な研究対象はエコソフィ(ecosophy)です。これは、語源的には、場(ecos)の智恵(sophia)という意味を持つ言葉です。ノルウェーの哲学者アルネ・ネスの用法に従い、ここでは「エコソフィ」の語を、エコ中心的な価値に基づき、特定の場に根差した実践を伴う(言葉にされた)生活哲学という意味で使います。他に類を見ないその土地独自の芸術などの営みには、その場とそこに生きる多様な存在に固有の智恵が反映されています。私たちの生きる場に見い出せる智恵と多様な本質的価値に対する感性は、精神修養を含め、さまざまな方法で育てることができます。例えば、合気道は人間ひとりひとりの「気」を自然の大きな「気」に調和させる能力を引き出すものです。これが「合気」の意味なのです。土地に対してこの「合気」を実践しようとするなら、近代産業文明パラダイムに基づく破壊的な単一作物栽培(モノカルチャー)とは正反対ともいえる、福岡正信の自然農法など、従来のものとは違った農業が始まることになるでしょう。
 今日の環境の危機を思うに、価値教育の必要の緊急性を感じます。この環境の危機は、オゾン層の破壊、有毒物質による海洋・河川の汚染、食品汚染、地球温暖化、種の絶滅や生物の多様性の喪失、といったさまざまな兆候を示していますが、全体としてひと連なりになった解決の困難な状況を呈しています。自然の世界が傷ついていくのを見ていると悲しくなってしまいます。
 この環境の危機は、近代産業主義の考えに基づく対応を大きく超えるものです。産業主義パラダイムに基づく組織の論理は、トップダウン(上意下達)の支配を特徴とし、ただ一つの目的(すなわち、利益の最大化、費用の最小化)を達成すればよいとするものです。この論理は、多国籍企業の有能とされる経営陣に共有されているものですが、こうした人々は、広い視野を持ち環境や社会に対する責任について考えようとはしません。この論理が、生産のあり方、組織づくり、勤務形態などさまざまな側面に適用され、これが進歩と同一視される発展や近代化と見なされるのです。農業の単一作物栽培と同じ形態がすべてに押し付けられ、このパラダイムが持つ狭い価値観念はさらに貨幣価値といった単一の量的概念に矮小化されていきます。今日の環境の危機は、近代産業主義に基づく制度や価値観が、その限度を超えて押し進められ問題化していることを明確に示すものです。この地球のひと連なりになったエコロジカルな協同体が破壊されつつあるのです。
 私たちにいま求められているのは、多様性と調和する生活や技術の創出です。また、その実践のあり方が見かけ上、互いに大きくかけ離れることもあるという共通認識も必要です。農業や林業といった一次産業分野では、エコ中心的な価値の適用が不可欠です。すでに多くの個人や団体、地域社会が産業発展モデルを排し、自らが根差して生きる土地の森林や平原で持続可能な生活様式を実現しています。その実際の形態は実にさまざまですが、単一作物栽培的な産業主義に基づく農業や林業と区別するため、これらの営みを総称してエコ農業、エコ林業と呼んでいます。
 自分の生きる場である農地や森林から農業や林業のあり方を直接学び実践することにより、多くの人々が独自のエコ中心的な考えに基づく生活を実現しています。そのような実践はまた、自然の世界や他の生物を尊重しないこれまでのやり方ではもううまくいかないことを理解した人々の手によっても育てられています。これらの人々は、ディープ・エコロジー運動の基本原則や自然のなかに見い出せる本質的価値(それ自身の価値)と矛盾しない個々の生活哲学(その基盤は、道教や大乗仏教など、既成の宗教哲学に求められることもあるでしょう)を自らのものにしているのです。こうした人々の間には、協同作業や年中行事・祭礼などを通じて、本質的な価値を持つ関係も深まっていくことでしょう。ここで育つものはさまざまな文化的差異を反映した個々の土地に固有の実践のあり方ですが、全体として自然や人間に関わる一定の価値が共有されていることも見逃せません。
 文化や生物の違いという壁を超え意思を通わせる人間の能力は、多様なコミュニケーションの手段を通じ、何世代にもわたり発展してきました。このようなコミュニケーションの架け橋や回路は、学者、芸術家、貿易商人、教育者、探検家、世界的な政治指導者といった実にさまざまな人々により、つくられてきたものです。エコ哲学の発展もまた多様な文化を扱う比較哲学研究の業績に多くを負っています。例えば、西洋では、ジョゼフ・キャンベル、ジョゼフ・ニーダム、ニニアン・スマート、ヒューストン・スミスといった人々が大きな貢献をしてきました。一方、日本では、和辻哲郎、西田幾多郎といった人々が、さまざまな世界観をつなぐ架け橋をつくったり発見したりしてくれました。こうした文化横断的な探究が自分自身をよりよく理解するのに役立つことは、外国語を学ぶと母国語についての理解が深まるのと同じです。このような共通理解の基盤づくりには、社会正義や平和、そして環境保全を求め、地球的視野を持ちつつ草の根で取り組みを進める運動を支える人々なども大きな貢献をしています。
 今世紀に入り、人類は国連など地球規模の視野を持つ多くの機関や制度をつくってきました。数え切れないほどの国際合意や条約も成立しています。環境保全分野では、絶滅危惧種や生物の多様性、二酸化炭素排出(気候変動/温暖化)などに関わる合意がなされています。また、社会正義や平和の分野では、人道にかなった待遇や紛争解決の方法として全面戦争に代わる手段を求める合意があります。このような共通基盤づくりに向かう動きはますます多くの支持を集めており、これは一極集中や中央集権ではなく、多元主義や分権主義に価値を置く賢明な認識が育ってきていることを示しています。経済収益だけに焦点を合わせ標準モデルに基づく行き止まりの地球単一化を推進するのではなく、これこそが進歩につながる道なのです。
 これまでのやり方で何も問題はないとする近代主義に基づく考え方は、仕事の上でも市民生活の上でも、価値の多様性を深刻な形で失うという致命的な欠陥を抱えています。企業の私有化や合理化の推進も、それに伴う環境面や社会面での貧困化には目が向けられず、自由化の推進であるとか、赤字減らしだなどと正当化されてしまうのです。企業収益が史上最大を記録している一方で、税収に不足が生じるという奇妙なことが起こっています。例えば、北アメリカでは、社会福祉や環境保全に向けられるはずの税収入が、短期的な視点から産業界の意向を踏まえてなされた政治決着により、減額されるという事態が起きています。公平に課税するのではなく、環境、社会、文化などの面における負債を増やす方向に進んでいるのです。
 企業などの法人組織が税金を払わず、本来支払うべき費用を環境や社会に負担させてしまうことも少なくありません。巨大な製紙工場の排ガスが原因で子どもたちの間に喘息が高率で発生している地域社会は、本来は製紙工場が支払うべき費用を医療費という形で(地域社会や自然に関わる他の被害は別にしても)負担していることになります。生態系や地域社会に対する責任の否定は、いまや地球上のどこにでも見られるようになった利潤追求型の個人主義的価値体系を伴う近代主義哲学のもとでは当然とされることです。このような哲学は特定の土地とのつながりを持たない根無し草のようなもので、文化的、民族的伝統に対しても一切敬意を払わないものです。
 人間の置かれた現代の状況を全体的に捉え、私たちの惑星地球の価値次元をつきつめて考えてみると、ついには究極的な哲学へと行き着きます。多くの人々にとり、こうした哲学とは伝統的な精神文化や宗教に基づく世界観ということになるでしょう。文化横断的な経験を多く持ち、そのような生活を実践している人々は、多くの伝統的精神文化から取りだした価値や実践を豊かな形に統合し、自分自身の究極的哲学を持つことがよくあります。また、それまでの信念や信仰を、生活のあり方や環境に対する負荷という面から考え直してみる必要を感じる人もいます。私は世界にどれほどの足跡(環境負荷)を残しているのか、自分のエコソフィをどのように育てていけばよいのか、といった問いかけがなされるわけです。
 ネスは、現代の地球の窮状に対するエコ哲学の営みを四つのレベルに分けて考えています。すなわち、1. 究極的な哲学、目的のレベル、2. 多様な文化的差異などを超え意思を通わせ共通理解をつくるための基本原則のレベル、3. 基本原則に則った目的を達成するため、個人や社会の価値と矛盾しないかたちでつくられた個人の生活姿勢や政府の政策などのレベル、4. 以上の三つのレベルの目標を達成するために行う、生活や全体状況の一部としての実際的・具体的行動のレベル、の四つであります。
 環境運動との関連で言うなら、アルネ・ネスが浅い(シャロウ)エコロジー運動と深い(ディープ)エコロジー運動とを峻別したことは重要です。浅いエコロジー運動は深いレベルの問いかけを避け、これまでのやり方を大枠で変えることなくそのまま行こうとするものです。この立場では、人間の価値だけが考慮の対象にされ、人間を他のすべての存在の上に置いて判断がなされます(人間中心主義)。これに対し、深いエコロジー運動は、長期的視野を持ち、生計をたてるためのものを含め人間の営みをエコ中心的な価値に基づくものにすることを通じ、持続可能な人間文化の実現を図るものです。ディープ・エコロジー運動の基本原則の中には、人間を含むすべての存在が本質的価値を持っているとの認識や、多様性そのものにも本質的な価値があり尊重されなければならないことの確認、といった項目が含まれています。基本原則は、よりよく生きるために人間と人間の技術を生態系の現実に調和させる必要があると指摘し、すべての関係の網の中で生の質を向上させることを進歩の指標として強調しています。
 ディープ・エコロジー運動の基本原則を支持するということは、生きることのあらゆる面にエコ中心的な考え方を取り入れることを意味します。エコ中心的な価値に基づく教育、土地利用、農業、林業、生活様式、といったさまざまな営みを発展させていくことが可能です。それぞれの場(土地)に固有の状況があり、これらの営みも実に多様な形態を取ることになります。多様な文化や哲学を背景に持つ人たちが、等しく第2レベルの基本原則を支持しています。この共通理解が環境問題を引き起こさないような賢明な政策や行動を私たちに選択させてくれるのです。こうして取られる政策や行動もそれぞれ独自の事情を反映した多様なものになります。すべての存在の本質的な価値を尊重し、多様性を大切にし、自然のなかの智恵や価値を探し求めるなら、今日の問題を協力しあい解決していく道が容易に見つかることでしょう。多様性を尊重し祝福する分権化された節度ある世界を築くことができるのです。人間がこの仕事に着手すれば、人間以外の存在も喜びを分かち合ってくれることでしょう。多様なエコソフィと共に、満ち足りた豊かで高い質を持つ生き方が可能になるのです。


ミニ・コンサート


甲南女子大学琴麗会


曲名:あこがれ
作曲者:沢井忠夫
作曲年代:1972年2月
解説:
 今までに書いてきた作品の殆んどが、陰旋律を基にしており、最近陽旋律法を使った性格の明るい曲を書いてみたいと思うようになったが、この曲もそうした意味で、かなり明るさを盛り込んだつもりである。唯、所々に未だ陰旋律が顔を出すのは、私の性格的なものであろうか。題名の「あこがれ」は、私自身の明るさへの憧れである。
(作曲者)
 若者の未来に対するあこがれが力強くあらわされた曲である。沢井作品の中では初歩の部類ではあるが、それなりに難しく弾きにくい曲でもある。
 沢井忠夫は日本の箏(ソウ:琴)の音楽を現代化した最も代表的な音楽家で、彼の作曲した曲は広く愛好され、数多く演奏されている。

曲名:六段の調
作曲者:八橋検校(ヤツハシケンギョウ,1614-85)
作曲年代:1600年代
解説:
 「千鳥の曲」と共に箏曲の代表曲として一般によく知られた曲である。曲はソナタ形式の器楽曲として作曲されたいわゆる「段もの」の一つで、位の高いものとして流派を問わず演奏されている。

(藤井克子・箏曲師範)




国 際 シ ン ポ ジ ウ ム


シンポジウムの運び


コーディネーター 谷口文章(甲南大学)


 国際シンポジウム「環境倫理と環境教育−人と自然の共生をめざして−」は、タイのラダワン・カンハスワン先生、中国の金 世 柏先生、ドイツのヴィルヘルム・フォッセ先生の特別講演(午前)およびカナダのアラン・ドレングソン先生の記念講演(午後)を受けて、環境倫理と環境教育をグローバルな観点から展開したく考えている。
 手順として、海外からのシンポジストは10分、日本のシンポジストは20分それぞれの立場から主張して頂く。その際、前半は環境倫理を中心とした発言を、後半は環境教育を中心とした発言が期待される。
 まず前半の「環境倫理の展開」は、シンポジスト全員にドレングソン先生の記念講演“エコロジー哲学:倫理と教育−人と人、人と人間をつなぐ価値の架け橋−”をふまえて頂き、広い視野から、最初に中村 運 先生から“生命と生態系”について生物学の立場から環境と切り離せない生命について発言して頂く。次にその生命を人間の生命に限定しつつ、中川米造先生による“生命の尊さと健康教育”について述べて頂き、生命に携わる健康教育から広い意味での「環境教育」について示唆を得たく思う。それから金先生に教育思想的な立場から“中国の環境教育思想とその展開”について発言を求め、後半の各国における環境教育の具体的展開への口火を切って頂く。
 そして、その後「環境教育の展開」を中心として、カンハスワン先生に地域文化に根ざした“タイの慣習に基づいた環境教育のプログラム”におけるカリキュラムを教示してもらい、また久武先生に“アメリカ・インディアンから学ぶ環境教育”によって環境の地盤は地域の固有文化に根ざすことを示してもらう。このようにしてアジアおよび地域文化に育まれた環境教育の基本的考えを理解した上で、フォッセ先生から欧米の環境教育とくにドイツにおける環境教育について述べてもらう。
 10分間の休憩をとって、最後に鈴木善次先生から国際的視野を含めた“日本の環境教育の展開”によって発表の締めくくりをお願いする。
 以上の各立場からの発表後、会場からの御意見も含めて、理論面の環境倫理と実践面の環境教育の展開を通じて、21世紀の「人と自然の共生をめざして」私たちの生き方と環境をどのように考えていくべきかを検討したい。




エコソフィと教育

アラン・ドレングソン(カナダ・ビクトリア大学教授)


要 旨
 教育というものは、特に大学教育を考えた場合、人間が豊かな智恵をもって生きていくことに貢献すべきものと言えます。英語で大学、university と言いますと、これは広さの面でも深さの面でも、理解が総合的、包括的であることを意味する言葉で、もともとは「全体」を意味するラテン語に由来しています。すなわち、大学とは、学部や学科を単に寄せ集めただけのものでなく、本来、全人(あらゆる面で成長を遂げ、全体的統一のとれている理想的な人間)を育てることを目的に理論と実践を伝授する一体性と協同性を持つ一つの社会でなければならないのです。
 教育は訓練(ごく狭い範囲の特殊な仕事を遂行するための専門技能や細分化した知識を与えること)ではありません。大学教育は、人間がよりよく生きることに貢献するものでなければなりません。人間は、自らが生きる社会の状況、あるいは自らを取り巻く環境に関する理解を持たなければ、よりよく賢明に生きることはできません。そして状況や環境を包括的に理解するには、この世界に関する物理的事実を知るだけでは十分でありません。意味や価値の次元に踏み込んでいく必要があるのです。高等教育の最優先課題は、賢明に生きていけるよう、個々の人間が判断や行為の基盤となるべきものを見い出すことです。深さや価値を伴わない物理的事実に関する知識をいくら集めても、それが愚かにも誤った目的のために利用されてしまうことがあるのです。
 哲学とは、人間の価値や意味をすべて対象にして行われる包括的な探究の営みであると言えます。英語の哲学、philosophy は、古代ギリシャ語の「愛」(phil)と「智恵」(sophia)に由来する言葉です。現代の人間が生きる環境は、生物物理学的、歴史学的、人類学的、とさまざまな状況が重なりあって形成されています。例えば、文化の多様性と生物の多様性は、互いに固く結びついており、またいずれも本質的な価値を持つものと考えられます。それぞれの文化や人間が自らが根差す場(地域)で賢明に生きていく可能性を探究するという目的を持つ包括的な研究分野もあり、これはエコロジー哲学(エコ哲学、ecological philosophy)と呼ばれています。
 エコロジー哲学が追求するもの、それがエコソフィ(ecosophy)です。そのエコソフィとは、自らが根差す場とその場が持つ関係性の網の中で生きこれを研究することにより見い出せるエコロジカルな智恵のことです。今日、大学で学ぶことの総合的な意味は、多様な文化と環境の危機という文脈において理解されなければなりません。まさに、エコソフィを得ることこそが大学で学ぶ目的になるのです。
 この時代において、私たちは、それぞれ自分が持つ究極的な哲学や宗教について今一度よく考えてみなければなりません。私たちがそれぞれに持つ信念や信仰が、すべての自然の存在と人間が等しく本質的な価値を持ち多様性はそれ自身尊重されるべきものであるとする新しい認識に、合致するかどうか考えてみる必要があるのです。今お話していることは、ディープ・エコロジー運動の基本原則の最初の二項目にあたることです。この運動は、世界のさまざまな考え方(文化)を取り入れ、現在の地球が抱える大きな問題に長期的で広範な視野を持ち草の根から対応しようとするものです。
 このような基本原則のリスト(プラットフォーム)をつくることは、たいへんなしかし価値ある仕事です。この場合、エコソフィをその指針にする必要があります。さまざまなエコソフィが存在しますが、その多様性はまさに歴史、地域、生態系の多様性に基づく人間ひとりひとりのそしてまた文化ひとつひとつの多様性を反映するものです。エコソフィを実践するとは、他にはない自分自身が根差した場の持つ関係の網の中に自らを調和させ埋め込んでいくことにほかなりません。すなわち、教育や環境倫理の究極的な目的は、現代の人間のさまざまな生の営みを統合する主題であるエコソフィを得てこれを実践することだと言えるのです。
 生のあらゆる側面を調和させ、それぞれの場で美しく生きることができれば、それはエコソフィの具現化であると言えるでしょう。このような賢明な生の実現を助ける場として、エコステリーと呼ばれるものが準備されはじめています。エコステリー(ecostery)とは、エコソフィと、精神的な修養を経て賢明に生きる術を得る場(修道の場)という意味を持つモナステリー(monastery)の二語から作られた言葉で、エコロジカルな智恵、すなわちエコソフィが学ばれ、教えられ、実践される場のことです。エコステリーは、まだ始まったばかりの環境教育のプロジェクトです。