生命と生態系

中村運(甲南大学教授)


要 旨
1.生命系の成立
 ある主体が存在するとき、それを取り巻くあらゆる条件を環境という。したがって、40億年前原始の海で生命系が成立したのは、それを許す環境が整っていたからである。当時の環境は全てが無生命的であり、穏やかな海と化学進化を通して自然合成された必要な生命高分子が豊かに存在していた。生命系の成立と維持・発展を許した主たる要因は恵まれた環境にあった。現生の生命系(生物界)の環境は、加えて(1)多様な生物種が存在すること、(2)これらの生物種が新しい環境条件をつくり出してきたので、生物はそれらに対し適応しなければ生きられなくなったこと、(3)とくに人類がつくり出した、生物界がかつて経験したことがない有害な環境にも適応しなければ生存ができなくなってきていること、一方(4)生物史は過去にほとんどの生物種が絶滅した事実が、すくなくとも2回あったことを教えている。そして現代の新生代第4紀は第3回目の絶滅期に入っている、と多くの生物学者は考えている。その原因は“人類による自然破壊”である。最近における絶滅速度は1年当たり4万種に及ぶと推計されている。現地球上には250万種しか生存しないことを考えると、この絶滅速度は恐るべきものであるとともに、将来それはさらに加速されていくことだろう。今や、人類は申すに及ばず、生物界が懸崖上にあることを深く認識する必要がある。
2.生物の生存と適応
 生物が環境の中で生活するとき、より都合よく体のしくみを変えることを適応という。その適応の仕方は、遺伝的な場合もあり、また非遺伝的な場合もある。生物はさまざまな面で環境の影響を受けながら生きているのであるから適応能力がないと死ぬしかない。では生物は本来すぐれた適応能力があるにもかかわらず、種が絶滅するのは何故か。その理由は、(1)適応能力にも限度があることと、(2)適応には時間がかかることである。したがって、生物が完全な適応レベルに達していない段階で、大きな環境変化に見舞われたり、たとえ小さな環境変化でもそれが急速に進むと、生存できなくなる。たとえば、地球が大きな氷河期に入ったような場合が前者の例であり、近年生物種の絶滅が急速に進んでいるのが後者の例である、といえるだろう。生物種の絶滅が近年急速に進んでいるもっと大きい原因は、自然破壊があまりにも速く、生物の適応がこれに迫いつかないからである。生物自然には元来たくましい復元能力が備わっており、また幸いなことに水は幾度でも再生がきくめずらしい資源であるから、これらの自然の法則をよく理解して対応することが自然を豊かに維持する必須の条件である。ノールウェーのような岩山の国にも森林はあるし、シベリアのような永久凍土の上にも森林は育っている。しかしこれらの森林は、地質的年代をかけてきわめて徐々に発達してきたものである。したがって、これらの国々で行われているように伐採を続けるならば、その再生は再び地質的年代を経た遠い将来にしか豊かな森林は望めないのである。我々は自然の成り立ちをよく理解し、その能力を抹殺しないことが望まれる。これは科学の問題ではなく倫理の問題である。倫理は人間の行為からしか生まれないものである。
3.豊かな生態系
 人間の手の入らない生態系は、元来さまざまな生物たちが共存する豊かでにぎやかな自然である。そこでは、植物のような生産者、動物のような消費者、そして細菌や菌類のような分解者が互いに物質を循環させながら、精一杯生きている。この度世界遺産に登録された白神山地のような落葉広葉樹林を考えてみよう。秋の落葉は年々積み重ねている。中にはダニ、トビムシなどの小動物が落葉を細かくし、まるで布団のように歩くとふわふわしたあつい落葉層をつくっている。ここには分解者も豊かで、いわゆる腐植土を形成している。地上にはクマ、シカなどの大動物を初めとして昆虫類も多種類が生息する、全体としてバランスのとれた一大生態的共存系をつくり上げている。人類がつくる都市のような単一の生物種だけが生活する異常な生態系ではない。かつては人類も森林に生息していたが、巨大な都市社会をつくるようになってから、『どの生物種も経験したことのない』生活様式を追求し、暴走を始めた。一体どこへ行こうというのだろうか。
 近年共生という言葉がよく用いられる。共生とは元来生物学用語で、複数種の生物が互いに利益を交換しながら生きる姿をいう。では人類は自然の生物界に利益を与えただろうか。人類は自然から利益を収奪するばかりで、利益を与えたことはない。このように、利益を一方的に収奪し、相手に害を与えるような関係は生物学では寄生と呼んでいるのである。



生命の尊さと健康教育


中川米造(大阪大学名誉教授)


要 旨
 健康教育の基本は生命の尊さへの自覚にある。ところで健康の条件は、医療技術の進歩普及よりも、行動や環境との関係が重大である。とくに環境については、多くの論者の見解では、それは圧倒的に優位な影響力をもつとされている。問題は、人はある定まった環境に生活し続けると、環境の存在そのもに対しても、感受性が低下することである。これは広い意味においては適応であるが、現代社会の環境は著しく人工的であり、自然との分離を強化することを特徴とする。それは近代思想の特徴である、要素還元主義とエゴイスチックな効用主義に支えられた生活である。その結果、自然の意味や働きに感受性が低下し、ただ資源の収奪の対象としてのみ自然を捉えるようになる。しかもその収奪は加速度的に強力となり、生命の存続にとっても憂慮すべき事態になっているのに、ことの重大性を感知できなくなっている。
 健康についていえば、人々は主体性を放棄して、ただ医療に依存することで解決するという考え方を偏って育てている。しかしながら、そのような方向は健康の保証どころか、患者数の増大を助長するものでしかないことも次第に広く指摘されている。このことは、近代医療が効用性を重視する限り、その無益性を露にしつつあることは、このような近代原理の破産を意味することはあきらかであるが、環境への順応がもたらした感受性の低下の故に、転換が困難である。
 これを教育によって行動変容をおこさせるためには、認知領域に対する働きかけだけでは十分ではない。人工的でない環境や自然との対話あるいは相互作用の体験による、認知枠、行動様式の変貌こそが本質的であろう。一方的で支配的、操作的な自然観ではなく、共に生き、支えあうこと、その様式に喜びとそして意味をみいだすことが中核とならなけらばならない。生命の尊厳への自覚もそれを基盤にして可能となる。



中国の環境教育の思想とその展開


金  世  柏(中国・中央教育科学研究所名誉学術委員)


要 旨
1.はじめに(略)

2.中国の環境問題と環境教育(略)

3.中国環境教育の成立過程
 環境教育が用語として中国で用いられるようになったのは、1970年代の初頃からであろう。すでに20年余りが経過したが、その歩みを振り返って見ると我が国の環境保全とともに発足し、ともに発展して来たと言える。
 環境教育は環境保全事業の不可欠な構成部分であるばかりでなく、国民教育の重要な構成部分でもある。総括して言えば、中国における環境教育は次の四つの部分から成り立つ。それは環境基礎教育、環境専門教育、社会環境教育と環境管理要員の資質を高めるために行う環境在職教育である。
 今日の統合的な環境教育への発展の歴史をたどり、それを三つの段階に分けて考えてみよう。

 1)1973〜1983年(初期段階)
 2)1983〜1992年(環境教育の発展段階)
 3)1992〜1996年(環境教育は進歩しつつあり、新しい発展段階を迎えている)

 ここでは、それぞれの背景と活動を概略的に紹介する。

4.中国の環境教育の思想と実践の現状

1)環境教育に関する政府機関の方針と政策
 国家環境保護局と国家教育委員会がお互いに提携して学校や地域社会において環境教育を積極的に推進し、一連の政策と措置を打ち出した。

2)民間学術団体による環境教育活動

3)環境教育の思想と実践の一つの事例
 中国ではいまだ歴史の浅い環境教育の思想と実践を、現段階で総覧、概説するにはもうしばらく時をおいた方がよいと思うが、ここでは北京のある学校で環境教育が生物の授業に浸透する実践を具体的な事例として紹介するにとどめたい。

5.結びの言葉



タイの慣習に基づいた環境教育のプログラム

ラダワン・カンハスワン(タイ・ラジャバト大学環境教育センター所長)


要 旨
 タイの慣習と仏教は倫理の発達において非常に価値があり、従って、それらは人々の間に環境に関する認識と倫理を浸透させる方法の一つとして考えられています。タイの慣習に基づいた環境教育プログラムはたくさんあります。これまでに成功してきた興味あるプログラムのいくつかを、以下に紹介いたします。

1. ソングラン祭に関する環境プログラム

 このプログラムは、家族内に社会環境の認識を形成するための物である。

2. 木の日

 このプログラムは、カオ・パンサ(Buddist lent) の期間に行われる。人々はこの期間に、家庭や、学校や寺院などで木を育てることを奨励されます。

3. ロイ・クラトング・キャンペーンプログラム

 人々は、ロイ・クラトング祭の間には環境問題の原因となるプラスチックを使わずに、バナナの葉で Floating Kratong を作ることを要求される。

4. 父の日のプログラム

 このプログラムは国王閣下の誕生日に行われます。この日には、木の手入れだけでなく、運河や川や道路の清掃が行われます。これ以外にも "Forest Loving Water", "Small House in A Wide Forest", "Youth Loving Animal", "Sunday Buddhism Schools" といった興味深いプロジェクトがたくさんあります。すべてのプログラムは政府部門、非政府部門、共同体や学校の人々によって続けられてきました。   



アメリカインディアンから学ぶ環境教育

久武哲也(甲南大学教授)


要 旨
 世界の他の地域の多くの先住民と同じ様に、アメリカ先住民の生き方は、今日の世界的規模で進行する環境劣化の深刻な状況の中にあって、現在の私たちだけでなく将来の世代の人々に対しても、人間の居住環境の持続可能な管理や大地との心の通った付き合い方を考えていくための、別の側面からの智恵を与えてくれるように思える。
 アメリカ先住民たちの多くが自らの環境行動の原理としている中心的観念は「地母(Earth Mother)」というものである。それは人間と大地が擬制的な母子関係にあるというイメージだけでなく、人間の身体と大地の自然的地形との深いレベルでの親和的関係も強く意識化させるものである。地母の髪としての地表の植生、血液としての水流、肉体としての土壌、内臓としての四方位の聖なる山、という様な地母と大地をめぐる比喩的な表現は彼らの日常会話や物語の中にしっかりと根付いているし、時としてナバホ族の砂絵の様に人間の姿として地母が視覚化されることもある。そして儀礼や聖なる歌として具体的に実践されている。
 「地母」の身体景観としての大地のイメージは、先住民が行動の背景となる環境をどの様に考え、また行動するかを決定する際の規範モデルを導いていくことになる。先住民の子供たちは、こうした「地母」という考え方を行動のモデルとしながら、大地に対する優しい感受性や愛着を培っていくだけでなく、地球の「生命のつながりの輪」といった独特の感覚も身につけていくのである。子供たちは動物や植物に対して「兄弟・姉妹」という人間を呼ぶ親族用語で語りかけ、また物語る。それ故に、人間の資源としての有用性の程度に応じて分類される「雑草(害獣)」といった考え方を基本的には認めようとしない。生命というものの序列化を拒否するのである。土壌というものも単なる無機的鉱物からなる組成とは見なされない。それは祖先の骨や遺体の灰の堆積層でありまた、「兄弟・姉妹」としての動物や植物の堆積層でもあると見なされていく。先住民たちは表層土を除去するに際しても、そうした行為が祖先の死者の安らかな眠りを妨げないかどうかを自らに問いながら、誠実な議論を行うのである。彼らの考え方の中では、土壌が人間の祖先たちの死と生き残った親族との関係を媒介とすることが可能であるだけでなく、「兄弟・姉妹」としての動物や植物と人間という親族との関係も意識化させるのである。
 これはアメリカ先住民についての小さい事例である。しかしながら、地球上のそれぞれに異なった場所で培われてきた大地や環境との係わりに関する先住民の考え方や知識は、必ずしも直接に異なった風土に移植することはできないし、また、環境教育にとっての普遍的な手段として、異なった社会に容易に受容されるということもないであろう。しかしながら、そうした先住民の生き方や考え方は、私たちが自らの環境行動を練り直し、そして私たちの時代の環境に関する法というものを再検討するに際して、多くの選択肢と方向性を与えてくれるであろう。



ドイツにおける環境教育

ヴィルヘルム・フォッセ(ドイツ・慶応義塾大学講師)


要 旨
 環境教育学は1970年代中頃のエコロジー危機にさかのぼる。しかし当初それは教育学的観点ではなくむしろ国家の環境政策や政治学的なエコロジー運動から派生した。それらは「生態学的近代化」や「工業システムからの離脱」を目的としていた。なぜなら工業発展は自然環境を破壊する破壊力を生み出したからである。その後教育学的討論は3つの主なトピックを掲げた:[1]環境教育(「環境意識」や「エコロジー活動能力」を養おうとするもの)、[2]環境学、[3]エコロジー教育学(環境危機を打破する唯一の方法は工業生産からの離脱と社会の急進的変容だという仮説から発するもの)。
 しかし、1980年代に社会活動が衰えたために上記のうち[2]と[3]のアプローチは衰退し、[1]の「環境教育学的アプローチ」が国家や行政により支持され、1980年代後期からドイツの環境教育として取り入れられた。
 環境教育学は学校、成人教育、クラブ、協会、NGOと環境センターにより構成されている。環境教育学が発信されるのは先生、教育者、アドバイザーや成人教育の専門家、環境センターとマスメディアである。環境教育学に熱心な団体は広義には幼稚園、学校、大学、連邦及び地方行政・省庁、NGO、環境運動と科学及び教育団体("German Society for Environmental Education"を含む)である。
 "German Society for Environmental Education"の主な考えは以下の通りである:(a)環境教育学は実践志向であるべきだ。すなわち経験や観察を通じて行われるべきだ。(b)環境教育学は状況志向であるべきであり、生徒の個人的経験に基づいて行われるべきだ。(c)環境教育学は問題志向であるべきである。すなわち「趣向の違い」や「対立」をテーマとすることである。(d)環境教育学はシステム志向であるべきだ。これは新たな知識が生態学的関係と関連することを意味する。
 わたしのプレゼンテーションではドイツにおける環境教育学の考え・概念、義務教育や職業学校における実行状況、市民活動、成人教育や環境センターについて手短かに説明したい。同時に環境教育学がひとつの科目という枠を超えることの阻害要因となっている短所や不足点を述べたい。



日本の環境教育の展開

鈴木善次(大阪教育大学教授)


要 旨
1.環境問題は文明の問題
 人類の歴史においては、その時代ごとに環境問題は存在していた。環境が悪くなると人々はその解決のために新しい生活スタイルを生みだした。それが文化であり、文明である。現代の環境問題は現代文明、すなわち科学文明のかかえる問題であり、その解決はこの文明のあり方、現代のライフスタイルの見直しが必要である。
2.環境教育は現代文明の見直しを促す教育
 現代文明を見直すことのできる人々を育てることが環境教育であるとすると具体的にはどうするか。まず、人間環境を構成する自然的環境・人為的環境について、また自然的環境の構成要素となるさまざまな自然物や自然現象についてよく知ることである。次に、今日の人為的環境(例.都市環境)の形成に大きな役割を果たしてきている科学技術について、またその基盤となっている科学についてよく知ること。三番目には社会のしくみ(政治・経済を含め)について知ること。それらを学習したうえで人間にとって望ましいライフスタイルとは何かを考え、それを実現するための智恵を身につけさせることである。
3.日本での環境教育の動向
 急速な近代化、工業化を目指した日本は世界でも類を見ないほどの経済成長を遂げた。確かに人々の生活は「豊か」になった。しかし、それによる歪みとして、これも世界に類を見ない環境破壊「公害」や自然破壊をもたらした。
 こうした歴史をふまえて日本での環境教育は「自然保護教育」や「公害教育」を先駆的な活動として1970年代はじめにスタートした。しかし、これらは必ずしも順調に展開されなかった。特に後者では公害企業を追求する傾向から「偏向教育」のレッテルが貼られがちであった。
 1980年代後半になると地球規模の環境問題の顕現化もあって、これまでの「自然保護教育」や「公害教育」を包含する形で、広く「環境教育」として再スタートすることとなった。1988年に環境教育の方針を打ち出した環境庁は、各自治体の環境担当部署を通してその普及活動に力を入れた。1994年の環境基本法には環境教育の重要性が明記された。1995年から全国的に子どもエコクラブの組織化を進め、その啓発に努めている。
 一方、文部省は1991年に中学校・高校用、1992年には小学校用の環境教育指導資料を作成し、その普及を開始した。方針としては特に環境教育のための新たな教科を設けないで、既存の教科で取り扱うというものである。現在、各地で研修会や研究授業の試みなどが行われている。

 参考:鈴木善次『人間環境教育論』(創元社,1994)



ディスカッション

谷口先生
 最初にこのシンポジウムのまとめをさせていただきます。
 環境教育という言葉がある意味で流行し、そして認識されてきています。環境教育が徐々に正式な科目として認知されつつあるということです。けれど、だからこそよけいに深く(Deep)考える必要があるのではないかという感じがいたします。公害教育ではない、覆いかぶせの教育てはだめだということです。
 それから実際のプログラムというものも重要です。その際、きょう諸外国の先生方にもお話していただきましたように、各国固有の文化を尊重しなければならない。ひるがえって、実際それが定着する場合は、W.フォッセ先生が言われましたように、形だけ数学や論理学を教えるのではなく、やはり感じること、「なるほどな」と納得できるような日本的なプログラムに変える必要があるだろうということです。これが二つ目の問題です。
 そして一番難しいのはどのような教育者を育てるかということになるかと思います。これもやはり、環境教育を問題にする場合、教師自ら、私自身もそうですが、やはり目の前に突き付けられている問題だ、そういう風に思います。
 今日の会議を私なりに、それぞれの先生方の発表をまとめさせていただきますと、すでに硬化した、あるいは制度化した、そういう考え方をもう少しもとへと戻すことが必要ではないかと思います。
 例えば、中村運先生のご発表の中にありましたように、自然との「共生」という言葉は人間が勝手に名付けておりますけれども、それは「寄生」に過ぎない。つまり、人間の位置づけというものを生態系のもとに戻して一体化して、そこからもう一度、人間自身を反省してみようというお話しであったのではないかと思います。中川米造先生の場合は、やはり病気と対話すること、これがなければだめなんだということです。例えば臓器移植における問題の場合なら、普通私たちは日常的に「生」と「死」という分け方をします。そこから、「死」というものは悪いものだということになれば、その反対の「生」は一方的に善いものになり、その「質」を考えなくなります。臓器移植をして量的な長さばかりを考える方向になってしまうわけですね。むしろ「生」と「死」が一体化したもの、同じものの一つの側面であると考えなければならないのではないでしょうか。あるいは中川先生流に言いますと、病気との対話、それは自分との対話であり、それも、いやなものも、いやな自分も一体化して考えるというようなお考えではなかったかと思います。ここでも環境というのが根本になる。金世柏先生がお話されたように、「天人合一」という中国のことわざが示すように、もちろんこれらも一体化している。むしろ一体化した状況をL.カンハスワン先生はいい形で取り出されてご提示されたのではないかと思います。なにか楽園の国のような、しかしそこには宗教というものが背景にあるということを、ひとつのモデルとして提示していただいたように思います。
 また久武哲也先生が示唆されたのは、結局イメージや特殊な親族用語といった観点から、「共感」や「同一化」についてお話をされたのだと思います。また、大人が非常に言葉が硬くなっています。すると逆に退行現象を起こしますと、幼児言葉を使うことがよくあります。やはり好きな人の前では甘えることもある。普段は前には出しませんけれども、そういう風な表現をして当たり前だという風に思います。現代社会は何か表向きの顔ばかりで、白々しく人間関係が過ごされているような気がしてなりません。むしろ大きな木を兄弟や友達として感じる、そしてその中にまさに神様を見るということが必要なのです。そのことによって周りの木が切られなくて森林破壊が防げるということもあるわけですね。そういうことは共感がなければできません。あるいは同一化しなければできません。A.ドレングソン先生流に言うと、それはきっとエコロジカル・セルフの拡大だという風に言われるでしょう。エコロジカル・セルフというのはネイティブ・インディアンのお話しでもありましたように、そこにこそ自分があるのであって、そのエコロジカルな意味での環境とか、その場面々々から離れてしまうと自分でなくなってしまう。ですからそれを直ちに、これは鈴木善次先生と重なりますけれども、他の文化というものをそのまま移植することはできない。けれども、そこに一つの揺らぎがきたとき、そこから与えられて、非常にいい動きというか、いい方向づけを考えさせてくれる、深く考えさせられる、ということが起こりうるのだと思います。それはエコソフィのテーマとも同じだと思います。そのあたりも全てこの会議の中で関わってきたのではないかと思います。久武先生のお言葉を、別な表現でドレングソン先生流に申し上げますと、「エコロジカル・セルフの自己実現」という表現ができるのではないでしょうか。
 それから、鈴木先生が非常に現実的な、けれども一番今環境教育学会においても問われなければならない問題を示唆されました。それはつまり、環境教育の科目としての位置づけの問題だと思います。一方で総合的な科目としての性格がある、これを各学校教育の制度の中において独立した教科とするのか、あるいは総合科目のままにおいておくのか、ということが非常に大きな問題点としてこれからの学会の動向を考えていく必要があるだろうと思います。それとともに、やはり教師がどれほど真剣に環境について考えているかということが重要になってくるのだと思います。今、教師と限定しましたけれども、実は家庭教育から環境教育は始まるのだと思います。主婦の方もおられるかと思いますが、まず第一歩は家庭環境の中において、どのように子どもたちをしつけるか、あるいは環境についておどのように互いが共鳴しあいながら理解するか、という問題に帰着していくのではないかと思います。このような形で今日のお話しを、コーディネーターとしてのまとめとしておきたいと思います。
 まず、ドレングソン先生のお立場からお願いします。そして環境倫理について一人どなたでも結構です。それから環境教育についてお一人、質問それぞれお願いしたいと思います。また、おそらくフロアーの皆様方もそれぞれの先生方にご質問があるかと推察いたしますので、その時間も取りたいと思っております。

ドレングソン先生
 本当はたくさん質問があるんですけれど、また問題点もたくさんあります。非常に面白いアイディアがたくさん出されました。どこから始めていいのかとても難しく感じているところです。二つの質問と言われましたが、特にどなたかというのではなくて、どなたでもお答えいただきたいと思います。
 最初の質問は家庭での教育についてです。特に子供に対しての家庭教育についてです。このことに関しては、まず私自身の親としての経験を反映させてみたい、振り返ってみたいと思います。親として色々なことを経験してきました。家庭で子供を育てるということについて、親として色々な努力をしてきたわけです。子供に価値観を教えたいと思ってきました。そして私の国カナダでも、親としてどのような経験をしたか、それはほかの親たちも同じだと思うんです。けれども、こういうことがあります。家庭で何をして、学校では何をするのかという区別です。お互いに押しつけあうわけではありませんけれども、家庭で何を教え、学校で何を教えるかということが問題になります。
 現代は、誤った教育というのが、あまりにも氾濫していると思います。この誤った教育というのは、ポップ・カルチャーと私の妻は言っていますが、その言い方が正しいかどうかは別として、子どもたちというのはそういうポップ・カルチャーに大きな影響を受けております。マスコミのプログラムとかそういったものの影響を多大に受けているのが実情であります。そして友達からもいろんなことを吸収してきます。私は家ではそういったテレビは見せないようにしていのですが、なぜか子供は知っているわけです。ですから環境教育についても誤った教育がもう染み込んでしまっている。そしてポップ・カルチャーを通じて、誤った価値観が伝わってきているという風に思います。さらに、消費があおられたり、対立があったり、そこには様々な要素があります。現代は、なんでも戦いであるとか対立中心になってきている世界だと思います。
 ほかの国についてはよくわからなのですが、ほかの国の方で例えぱ家庭教育と学校教育についてどなたかにお聞きしたいと思います。もう一つは将来のビジョンについての質問です。先生方が色々なビジョン、考えについて提示されましたので、将来のビジョンは非常に力強いともいえますが、しかしビジョンには意味づけが必要です。ですから、それについてどなたかご意見をいただきたいと思います。

谷口先生
 それでは、まず第一の質問は家庭教育と学校教育の違いについて、また家庭環境をめぐる問題ということになるかと思います。家庭教育と学校教育の問題として、誤ったポップ・カルチャーというものがある。これはもうまさに日本はカナダ以上に先進国だと思います。ファミコンとかバーチャルリアリティの問題も実は関わってくるだろうと思います。それでは、鈴木先生お願いいたします。

鈴木善次先生
 僕は家庭教育はだらしないから、そのことは申し上げません。環境教育で、とかく議論され問題になるのは、今おっしゃられた誤った教育、環境について誤った教育がなされ、誤った価値観がそこにもう出来上がっているのではないかということです。家庭ではちやんとした教育をやっているのに、テレビやマスコミはそうじゃないことをしている。だからけしからんというそういう印象をもつわけです。しかし、誤っているかどうかということは、先生ご自身のある価値基準に基づいてそのようにおっしゃっているのはないかと思います。環境教育では学会でもよく問題になりますけれども、こういう方向にいくことこそいいんだというそれなりの価値観があって、その価値観に基づいて教育をやっていく、そういう方向と、あることがいいかどうかということはそれぞれその子供が大きくなった段階で自分で判断していけばいいことで、教育の段階ではそういうことを考えられるような判断力を身につけさせるだけでいいのではないかと。そういう意見があります。
 僕は片方に極端に片寄るのはいけないと思いますが、両方とも上手にやらなければいけないのでしょうけども。家庭ではいい教育をやっていてマスコミは悪いことをやっている、ということを決めつける場合には、どういう価値観が正しいのか正しくないのかというその辺の議論がまずないといけないと思います。つまりもっと言葉をかえて言えば、このシンポジウムのメインテーマである環境倫理とは何かという中身がきちっと明確にならないと、発展がないのではないかと思うのです。

谷口先生
 環境倫理の中身が明確ではないといわれましても、それをひとつひとつこうなんだということは最初に申し上げましたように、一つの規範性とか価値に拘束されてしまうのではないかと思います。むしろ私は、ディープ・エコロジーの場合は、いろいろな価値体系を認めて、その中で、6人の先生方が共通の場にもう一度立ち戻ってみようという方向のお話しだったと思います。
 実際にはそれだけではなくてやはり、鈴木先生がいわれましたように方向づけというものが必要になってきます。そのためには、一度すべての既成概念、既成の価値観をゼロにしてからもう一回新たに考えるというところにディープ・シンキングの意味、深く考える意味があるのではないかと思うのです。
 ドレングソン先生はディープ・エコロジーの立場から、ある価値観を押しつけて、そしてその方向に教育するというお考えなのか、あるいはある問題が起こった場合、その場の状況に合わせてどうするべきかという主体的な判断力を養うのがディープ・エコロジーにおける環境倫理なのか、それをドレングソン先生にお聞きしたいと思います。

ドレングソン先生
 いまのは私に対する質問でしょうか。

谷口先生
 それでは鈴木先生のご質問を、一応整理し直して、鈴木先生の方にお答えください。鈴木先生の印象としては、教育において、ある価値観があって誤った教育だというように言われている場合に、一つの先入観を教えるのではなくて、判断力ということを養う必要があるのではないかということです。その誤った教育というものを、どのようにドレングソン先生は考えておられるかという質問です。ディープ・エコロジーの立場から考えるとしたらどうでしょうか。あるいは、むしろ答えは同じじゃないかなとも思うのですが。誤った教育という言葉だけのすれ違いではないかと思います。ドレングソン先生、そのあたりを鈴木先生にご説明してください。

ドレングソン先生
 その誤った教育ということについて、もう一度明らかにした方がよいということですね。私が誤った教育と言ったのは、私の家族が非常に怒ったことがあったわけです。そういうことがあると、私はそれほどストレスは感じなかったんですが、妻の方が非常に怒っていました。私には娘がおりまして、ロール・モデルを示さないといけなかったからです。例えば自然界に対して敬意を表していないような態度といったものです。これは考えが浅い。すなわち、充分に思慮深くない、充分に関心をもっていないということです。
 我々は家族の中で子どもに対してちゃんと良い模範を示さなくてはならないというようにいつも言っています。そしてほかの親も同じようなことをしていると信じております。ただその理由は完全に明らかだという訳ではありません。なぜか子どもは我々の思うようには動いてくれません。もちろんその子供のもっている天然の知恵というものは信じております。子どもに関しては非常にたくさんの研究が行われておりますが、子供の創造力、独創性、そして感受性、価値観といったものが、実は幅広い自然の体験から育つという風にいわれております。ですから、それを長期的には信じることができるでしょう。ただ、周りの子供の影響というのも非常に大きい。そして周りの子どもたちはテレビ・マスコミに影響を受けているということが多いのです。だから、極端な文化のイメージというものが、都会に住んでいる子どもにますます深い経験、ディープな経験として根付いてしまうということなんです。
 こうしたことがほかの国ではどうなっているか、ということを知りたいのが、まずひとつ私の質問です。このような極端な文化のイメージ、つまりポップ・カルチャーについて親、そのほか大人たちはどのような対応策を取っているのか、そのような状況をどのように変えようとしているのか。このようなポップ・カルチャーのプログラムあるいはそれに関連しての問題点などについてどのように対応しているのか。そしてそれと表裏一体でありますけれども、近代主義的な消費文化、そして価値観の根本的な変化ということについてはどのように思われているのか、ということをおうかがいしたかったんです。

谷口先生
 具体的に、親がどのように考えているかということですね。例えばあるテレビ番組があります。私も日曜日の昼頃、見ていていつも非常に腹が立つことがあります。100度のお湯の中に女の子を浸けてコマーシャルをさせる。それが面白いかのようにみんながやって、なんか笑っているんだけども非常に悲しいことです。人間って、ああいうことをしてまで自分を売らなければならないのか、それをあるタレントが冷ややかに見ている。本当にあれが笑いなのかなと思います。笑いというのはやはり古典落語のように何回聞いても、知っていても、ビデオにとって繰り返し見ても、それは見る価値のあるものであり、また新たな笑いが出てくるものだと思うのです。ところが、現代はそういう俗っぽい番組が非常に多すぎるという感じがしております。これを悪い教育と私なりに申し上げたいのですが、家庭教育の場合に、そういう場合の悪い教育をどのようにあつかったらよいのかということが問題となってくるのではないでしょうか。
 ・・・少し時間がなくなってきましたので、フロアーの皆さんとの討論に入りたいと思います。参加者の中で現場の先生方はどのようにお考えでしょうか。先生方の中で、こうなんだ、こうやってるんだということや、できなくてもできたらなあ、でもかまいませんので、皆さんから、先生方へご意見はないでようか?

中原さん(フロアーからの質問)
 中原と申します。現在、日本環境教育学会に属しております。私は仏教の教えというのは、ディープ・シンキングに当たるんじゃないかと思っております。心こそ大切なれという格言もございますし、仏教の教えというのは非常に緻密で繊細なところもあり、しかも抽象的な部分もあって、全体として統一性をもって成り立っている。心すなわちブレインと関連すると思うんですが、いかがなものでしょうか。よろしくお願いします。

鈴木先生
 中原先生、申し訳ありませんが、仏教の話も興味深い問題ですが、ここでは家庭教育とそういうマスコミの教育の関連性について、現場の先生方がどう考えてるかということを、現場の先生に答えてもらった方がいいのではないかな思うのですが。

谷口先生
 中原先生、いまのご質問は後ほどということで、中原先生も教育者でいらっしゃいますか。今さっきの流れからしまして、家庭内の教育でそういう俗っぽいもの、あるいはいわゆる誤った教育というものに接した場合に、お父さんとしてでも結構でが、子どもさんにはどういう風に指導されてますか。中原先生、自分の指示を通しますとちょっとなんか抵抗があるぞというものがあったり、あるいは家庭内でconfusonが起こるという状況になっていると思うのです。
 合理的な中にまた抽象性というものがあって、人間ができているんじゃないかなとは思っているのですが、いかがなものでしょうか。私自身としましてはそういう風な行動をとってconfusionが家庭内に起こっていると(笑)いう状況ですけど、そういうことをご指導願えたらと思います。
 ご質問が無いようでしたら先生方にうかがうことにしましょう。日本の場合には、いわゆる核家族の状況になっております。そういうところで、小さいときから、小中学校から、もう個別の部屋に住むという形になってきて、小さいときから個々が自分の世界を作り上げてしまっている。そこで、たまたまあるときに家族内でのシステムが衝突した場合に、非常に急激な形で悲惨な状況が起こったりいたします。これを推測すると、タイの場合には、家族制度とか、あるいはまた仏教的なもの、そういうもので、かなり安定的な環境倫理が実現しているのではないかと思います。
 いわゆる悪い教育という場合に、特に家庭内で、通俗的な教育とか悪い教育が入ってきた場合には、どういう風に処理をされておられるか、カンハスワン先生に少し答えていただきましょう。

カンハスワン先生
 タイの家庭教育について話す前に、まずその背景についてお話し申し上げたいと思います。ほとんどのタイの人々は仏教徒であります。そして仏教の教えは世代から世代へと受け継がれているものであります。例えば私の両親は仏教徒でした。そして仏教の教えを深く信奉しておりました。これが私にも伝わったということです。親は子どもに伝承する義務があるのです。若い世代に、そして後世に、世代から世代へと伝承していくというのが親の義務なんです。このようなことをすれば全て我々の抱える問題が解決できると思います。しかし現在はそれが難しい状況になってきているというのも事実だと思います。これには様々な要因があります。
 タイにも様々な問題が起こってきています。まず一つには人口の増加です。二つ目は西洋の文化の導入です。これらがテレビに代表されるものですね。そして、たくさんの悪者といいますか、やくざのような者も増えてきました。これらの人々に対して説得するのは非常に難しいわけです。また、経済の問題も関わってきます。家庭内にも、経済、家計の問題があります。ですから事態は今、非常に悪化しているといわざるをえません。
 一般の家庭では両親は、お父さんは外で仕事をして、お母さんは子どもを育てる、それが従来の形であります。そうすれば何も問題はありません。ここには社会的な問題であるとか、家族の問題というのは何もありません。しかし、現在はそれが難しくなってきています。つまり現金収入を得るために両親が外で働かなければならないようになってきたのです。両親が外に働きに出て、子供は学校に行く。そして子どもが学校から家に帰っても両親はまだ外で働いています。子どもたちは、両親が帰っていないところに帰ってくるわけです。誰もいない家に帰ってくる子どもたち。すると、子どもたちは外からの影響を受けやすくなります。
 いま我々が行おうとしてしていることは、道徳そして倫理を彼らに教えようとしているのです。タイでは、仏教の日曜学校、あるいは小学校などを使って子どもたちに倫理を教えようとしています。学校では僧が社会研究というかたちで、彼らに倫理を教えています。そうすることによって、慣習や習慣をもう一度子どもたちの手に戻そうというわけです。こうしたことは学校外でも行っています。タイでは国民の休日に行なわれる「祭り」も重要な教育の場です。このとき、学校は、祭りに対する「考え」であるとか「知識」を提供します。どういうふうに祭りに参加できるかというアイディアを学校が提供するわけです。タイではこのようにして様々な活動を行っています。音楽活動すなわちタイの古典音楽の復活もその一つです。タイの古典音楽というものは非常にソフトなものですが、それは長い間我々に忘れられていました。しかし、王妃のサポートによって、いまでは復活し、古典音楽の楽隊もつくられました。そしてタイの古典音楽のミュージカル・デイというものもできました。1,000人の子どもたちがホールで演奏し、そして彼らが自分自身で古典音楽を体験するのです。このような体験を行うことによって、非常に満足のいく活動をすることができました。将来、これらの子どもたちは規律をもった子供たちになると思います。
 ですから、子どもたちを助けるのは親であり、大人なのです。親の教育によって、大人の教育によって子どもたちは育つのです。親があまりにもお金のことばかり考えていれば、最後には子どもを失うことになってしまうのです。

谷口先生
 カンハスワン先生の今のお話と、カンハスワン先生の担っておられる環境というところから考えると非常によくわかります。ところが我々は、日本という文化にあり、それは現代文明の中に放り込まれているという状況です。この場合には少し事情が異なってくると思うのです。ただ、いろんなケースが、さきほど言いましたように、そこに学ぶのですけれども、それをそのままストレートに取り入れるのではなく、それをきっかけとして深く考えるということが必要だと思います。ある意味でタイの人たちも、同じ悩みを持っておられるということです。他方、伝統文化というもの、慣習というものがクッションになっている、そのあたりのところで、まだまだ、環境倫理というもの、あるいは教養、序列、年上の者を敬うということ、あるいは家族制度というものが安定していますので、かなり環境教育の仕方が違うだろうと思います。けれども、きょう私たちはそういうものを具体的に学ばしていただきました。
 日本でこのような教育をおこなうときに、例えば接触の仕方という場合について考えてみましょう。中原先生(フロアーへ)、例えば子どもが親を殴った、子どもが先生を殴ったと言ったら非常に憤慨ですね。その場合に結局それを今度は我々としてどううけとめるかというとが問題となってくると思うのです。現代は物事の関係が非常にストレートになってきています。個々のものの殻が破れた場合、ストレートに繋がろうとしてしまいます。そのような場合にそれが暴力だというようにして叱ってしまうのか、実は個々バラバラの家族関係だったから、今度は叩いてでもいいから必死のスキンシップを求めてきた、というふうに親が、教師が考えた場合は、これは両者が一体化できると思うのです。そういう人間関係あるいは師弟関係、親子関係の組み替えを、今はしなければならないんじゃないか、というように思うのです。そういう意味でもう一回、人間として基本的な共通の場に戻っていかなければならないのではないでしょうか。それは親子関係や家族関係あるいはタイの人たち、日本の人たちも同じじゃないかと思うのですが、今日はまさにそういう場ではないかと思います。
 次ぎに会場から質問をお願いいたします。

小田さん(フロアーからの質問)
 今日はディープというお話が多いようですが、それ以上に科学的であり客観的であるということが環境倫理学の立脚点としては大事だと思っております。そのこととも関連するわけですけれども、特に1960年代以降、地球環境問題というものが現代まで問題になっている。そして現代の科学技術がその大きな原因になっているという意味で、その現代という歴史性、時間性は大変大事だと思うのです。ディープエコロジーのほうではそう言う歴史性というか、端的に言うと進化という意味ではどのように捉えていらっしゃるのか一度教えていただきたいと思います。ドレングソン先生あるいは他に詳しい先生お願いいたします。

谷口先生
 デープエコロジーということになるとドレングソン先生ですけれども、ドレングソン先生は先ほどからお話していただいていますので、中川先生に科学ということについて関係のある範囲でお願いいたします。

中川先生
 すでに答えを出されているわけですが、科学技術ということに「現在の」という言葉をお使いになったわけですね。その「現在の」というのがデカルト的な、心と体を、心と物とを分けていく、分けて考えるという立場ですね。だから、主観は全然入らない。主観が入らないということは、人間の一番の特徴である主観というものを、いらないものとする。だから客観的なものでいかねばならないとするのです。そこで、客観的な物で本当に十分な理解が出来るかと言えば、どうもそうでもないらしい。
 このごろの科学論の話を聞いていると、例えば、演繹と帰納でもってそれですべては予測できるという。しかし、予測なんて言うのは、人間は客観的にはどうも出来そうもない。というのがこの頃の立場ですね。天気予報なんかでも滅多に当たらないでしょ。まぁ、ときどき当たるか。というのは、この頃の科学というか、複雑性だとか、カオスだとか、そうなってくると別の次元のものが入ってくる。さらに今度は、人間の社会ということになると、それこそ主観というものが寄り寄って、一つの方向を決めていくことになります。だから、客観的ということで決めつけることによって、かえって社会は尖ってくる。むしろ環境問題なら、みんなが納得するためには、お互いの対話、主観と主観を突き合わせながら、もちろんその中に客観的な知識というのが部分的に入るとは思うけど、そんなふうにキチッと分けないということも、これからの一つの生き様、生き方じゃないかなと思うのです。

小田さん(フロアーからの質問)
 先生のおっしゃる通りだと思います。もちろん人間が関わることですから、倫理ですから、そういうコミュニケーションなり、人間同士の関係というものの中でしか解決はしないと思います。そう思うけれども、現場の正確な認識だとか、正確な未来の生態系の構築だとかという場合に、そういう評価といった部分に、曖昧さがなるべく入らないほうが良いということです。具体的な現状問題を、現実の問題を解決するためには、客観的な部分は客観的に通さなければならない、と思うのですが。

中川先生
 まぁ、ちょっと言葉の使い方が違いますけれども、考えていることは一緒だろうと思います。結局私は、対話というのは、異なっていることをまず意識することが一番大事だと言いたいのです。そこで異なっているうちにどこが共通に理解できるか、そこが変化の始まりであって、定義を一つにしてそれ以外のものを排除していく。これは客観、これは主観というふうに排除したのではいかんだろう、特に倫理の問題というのは、いくら分子構造を調べても、倫理は出てこないだろうと思うのです。やっぱり生きた人間、生活して歴史を持っている人間でできあがっている。色々多様な人たちが話し合って、そこで合意できる、このままだと世の中や社会が大変なことになるぞと、と言うことで合意を得て歩き出していくということなので、誰か学者が測定をしてこれ以外には無いというようなそんなことでは、ちょっと物騒だと思います。また、ヒットラーが来やへんかと思いますね。

谷口先生
 いかがでしょうか、他にフロアーからご質問ありませんでしょうか。

生駒さん(フロアーからの質問)
 これは質問ではありません、意見ですが。みなさん抽象的な話が多くて、実際の具体性がないというのは、ちょっと失望する点があった。いま、日本の問題点は、社会は進歩に従ってエネルギーをだんだん使うようになってきている。いまエネルギーというのは原子力しかないのですが、原子力の功罪というのは非常に騒がれています。原子力を無くそうとか、環境問題でいきますと、石器時代に帰らざるを得ない。非常にジレンマがあるわけですが、そういう点をお考え下さい。

谷口先生
 はい、それは簡単には答えの出ない問題です。ただ、ドレングソン先生も現場に出ておられて、そこから具体的なことを色々関知して理論を組み上げられていますので、ここで言われていることがそのまま具体性がないというのではないと思います。特に環境教育に携わっていらっしゃる先生方の場合は本当に具体的に現場の子どもたちと直に接して、そしてフィールドなどに連れていったりします。現場をそのままお見せするわけには行かないのですが、その辺りのところ、生駒先生がおっしゃる意味合いは非常によく分かります。具体的に科学文明というものを一気に否定してしまうというわけにはいかないし、そういうふうな技術という意味において具体性がないんだというご意見かと思います。
 さきほどの中川先生も言われていることも、ある意味では非常に具体的でして、対話をする医者と患者という場合ですね。今までは、科学者である医者が絶対正しいから白衣をきている。中川先生そうですね。ちょっと先生、その辺お話お願いいたします。

中川先生
 医者が白衣を着だしたというのはつい最近、19世紀のことです。アメリカでは白衣のことをラボ・コートという。つまり科学という名において患者を診ているんだぞーという、その一つのシンボリズムです。ところが実際やっているところを見ると、案外非科学的なことをよくやってるんですね。看板だけ科学であるということは、かなり科学の悪い面だけを、押しつけの面なんかがずいぶん出てくる。だから、白衣は止めなさいよという。ですから患者さんの血圧なんかを計るときに、これは業界用語なんですが、白衣症候群なんてございましてね。それで医者が計ると30位血圧が高くなる。家で計ると低いというんですね。それはやっぱり白衣でもって、緊張させているということなんですね。だからそういうシンボリズムの意味も考えて、もう少し対話する姿勢になるのならば、白衣もとらないといかんだろうし、それから日本の診察室みたいに、あんな椅子が、お客さんにあんな悪い椅子に座らせているという。これもちょっと問題がある話で、これも世界中でああいうかっこうで医者の方が良い椅子に座っているという医療文化というのは、まぁ日本だけだと言えると思います。中国行ってもそんなことなかったですし。ただ外国で、刑務所の医者がうちはそうやっているぞぉって言ってましたね。あれ、刑務所スタイルなのかなぁと思いました。

谷口先生
 具体性ということで、先ほど申しあげかけたのは、もちろん中川先生が言われた通りなんですが、それ以上にインフォームド・コンセントというのが最近実際に行われつつあります。それは、医者が上であって患者が診られるんだ、支配者と被支配者の関係ではなくて、実際に対等に同じ椅子に座って意見を交換する。情報を十分に得て納得して治療を受けると言うようなかたちにおいて、ある意味での具体性を持っているだろうと思います。
 会場から今のような質問が出ましたので、私たちの話が決して抽象的ではないという意味で、本当は皆様方からご質問をお受けしたいのですが、あとは懇親会でお願いするとして、しめくくりの方向でいかせていただきます。ドレングソン先生の方から具体性ということでお願いします。

ドレングソン先生
 現在社会的には環境問題をめぐって非常に大きな研究がなされております。いかにすれば経済的な制度を変えることが出来るか。そして生態系の機能に、また生態系の価値に対応できるように、税制であるとか、エネルギーの消費という問題になっています。これに関しては確かに経費がかかるわけで、それにたいしてどういうふうに制度を変えていくかという、つまりエネルギー消費のパターンを変えていくということが出来るか、というような色々な研究がなされております。これは私であれば、生態重視型の経済というふうに呼びたいと思いますが、こういう経済、つまり、自給を考え、経済性をそこで考えて、例えば天候も取り込んでいくとか、そういったもの、これもやはり環境教育というものにも関わってくるのではないかと思います。経済学者もやはり教育しなければならないわけです。そして政府も環境教育というところから教育をしていかなければならないわけであります。そこで、我々としては、こういった分野では非常に急速な早さで変化が起こってきているということを認識しておかなければならないと思います。

谷口先生
 中村先生、分子生物学の場合に、かならずしもうまくいくわけではない、という意見が中川先生からもございまいたが、その辺のところの具体性、いいにしろ悪いにしろ、なにか具体性ということについてお話ございますか。

中村先生
 はい、私も「進化」をやっているのですが、今までに出てきた世界の進化の本というのは、全部人間までの話でありまして、こっからこの人間が次にどうなるかということについて論じた本は一つもないわけです。それで、よく言われるように歴史学というのは過去を知って将来の役に立てるということだとは言うものの、じゃ人間は将来はどこにいくんですかというと誰も答えは出していない。ひとつにはそういうどうしようもないレベルに今あるということなんです。にもかかわらず、人類と環境、人類と自然との対話というのはほとんどなされていないというのが現状ですし、そして、自然の生物が滅びたら人間も滅びることは絶対確実ですから、もう、ちょっと遅いかもしれない、と思うような絶壁にいまいるんです。ですから、環境の教育で、子どもたちに教えていただきたいのは、現実はこうだという事実をまず教えていただいて、これじゃ行く先は決まってますよ、ということも教えていただいて、じゃどうしたらいいか、という次の段階にはいるという、そういう方法論を確立していっていただくとありがたいのです。

谷口先生
 では、久武先生、具体的なもとしてはなにかありませんか。

久武先生
 私の話というのは、砂絵という非常に特殊なかたちのものでありますが、これは二つの問題を含んでいるわけであります。一つは、カンハスワン先生がおっしゃいましたように、家庭で、ようするに学校という通路でない、一つの伝統を受け継ぐ回路がある。やはり学校というのは社会化のプロセスにおいては、非常に効率のよい知識というものを教育していきます。あるいはさきほどの話にありましたように、合理的といいますか、ものの配列、秩序、オーダーそれから色々な効率のよさを教えています。そういうようなものを学んでいくのも、現代に適応していく場合にこれは必要なことでありますが、ただやはり自分たちが持ってきているもの、あるいはアイデンティティーと言う言葉ではちょっと漠然としておりますが、それらを大事にしなければなりません。
 例えば子どもたちが童話の物語の中で、ある「木」のことを「あの木」とか言う言い方ではなくて、「私の兄弟たちよ」と呼びかけるこの言葉というのは、やはり日常的な生活の中でしか教えられないのではないかと思うのです。ようするに学校ではあれは「木」と教えられますが、家ではあれは「私たちの兄弟よ、姉妹よ」と言うかたちの言葉を使うわけです。そこはやはり、違った二つの世界観といいますか、そういうものが社会化、ソーシャリゼーションの過程の中で生まれてくる。私たちは現実に日常生活の中で異なった二つの世界観を持っているのです。逆に言いますと二つに分かれた世界を持っているということであり、これがまた不幸ではないかという面もあるわけなのです。あるものを現実の場面でどう呼ぶかということは、その場その場で決まりますが、そのとき私たちは二つのタームを持っているということなのです。具体的かどうか、それはまた別にしまして、私たちはそういう世界に生きているだろうというのが私の現実的な考え方であります。

谷口先生
 それでは、フォッセ先生は環境政策がご専門ですけれども、何らかの行政体とか委員会にアドバイザーとして、具体的に参加されたことはございますか。

フォッセ先生
 私自身は直接委員になったりしたことはありません。ただ、私が思いつくのは、ドレングソン先生がおっしゃったことで、教育はいわゆる一方方向ではないということです。教育は教育者から子どもに対してするものですが、それだけではありません。ドイツにおいては、幼稚園あるいは三才から四才の小さな子どもたちは、先生または教育者にプラスティックを使っちゃいけないということを教えられたり、あるいは使い捨ての箸を使ってはいけないというようなことを学びます。それから、例えばゴミの分別をしたり、紙とプラスティックを分けたりするわけです。そうすると、その子どもたちが家に帰ってきてゴミを一緒にして棄ててしまう親たちに怒るのです。そんなことをやっちぁだめじゃないかとか、あるいはこういうゴミは分けなきゃいけないじゃないかというふうに親たちを叱ることもあるのです。
 ほとんどの教育者はエネルギッシュでもありますし、また環境教育を子どもに行おうとしているわけでありますが、そして環境を尊重するようにと教えようとしているわけですが、おっしゃるように何をするべきかということが欠けているとは思いません。環境、自然を尊重するということは常識になってきていますし、また生態系を損なってはいけないとか、均衡させなければいけないとが常識になってきていると思います。しかし社会科学的な観点から個人が自然を尊重したとしても、またゴミを森の中に置いてきてはいけないということを理解していたとしても、実際のところ、産業政策を決定しているような人たちの中でそういったことを実践している人は非常に少ないと思うのです。つまり、長期的に彼らは行政あるいは企業の意思決定者として仕事をしている中で、そういったものを忘れてしまっているのだと思うのです。
 今、ドイツの99%の人は非常に環境について感心を持っております。何をしたらいいか、何をすべきではないかということはずいぶん高い基準で、環境倫理が分かっていると思います。ただ、残っている1%、もしかしたら0.1%かもしれませんが、そういう人たちにこうした観点が欠けている、そしてそこの人たちが非常に金儲けをしているわけです。つまり環境を自分たちの目的に利用してしまっているんです。そしてこれらの人たちの考え方が、影響を与えているのではないかと思います。

谷口先生
 鈴木先生は、全国の小中学校の環境教育賞の審査委員でもあられますけれども、具体的にある意味では環境教育ということが叫ばれて、そうような賞が設けられて、色々と投稿がある。その中で具体的な、環境教育で成果があがっている、なにか具体的にある小学校、中学校でこういうふうないいことがあったということを、一つ御紹介いただけますでしょうか。

鈴木先生
 実際にいろんな学校を見て歩きますと、例えば、ただ観念的に環境教育をやっているというところも多少あると思います。でもそうじゃなくて、自分たちの学校の周りの川をきれいにしていくとか、そういう実際に自分たちの住んでいるところを、学校だけでなくて地域住民と一体になってやっているという、そういう活動の場面にいくつかぶつかることがあります。ただ、そういうとき、環境問題で電気の、エネルギーの問題をあつかっているところがありますけれども、そういうとき原子力発電が賛成か反対か、そういうことについてクラスを半分に分けて反対派と賛成派でロールプレイングをやっていく。そこでディスカッションをしていく、だけどじゃぁどっちが良いのかという結論はそこでは出さない。そうような教育をやっているところはあります。原発に関してはそういうところが多いようですね。あるいはゴルフ場なんかを造ることに賛成か反対かなんて、これもロールプレーでやってますが、ただ「そんなことをやっていたんじゃちっとも環境はよくならないよ」という意見も環境教育学会の会員の中にはおります。

谷口先生
 いわゆるロールプレーとかネイチャーゲームなど、これもやはり非常にある意味でいいと思うんですけれど、それだけじゃなくて本当の自然の中に入って行なうとか、例えばクロスカリキュラムというようなものを組みまして、実際にゴミの収集とか回収とかリサイクルといったことを具体的にやっている学校もあります。
 非常に長時間のシンポジウムになりましたが、最後まとめをさせていただきたいと思います。
 きょう具体的に環境倫理ということについて話し合われました。そこでは生命とか生態系、健康教育、あるいは教育思想について、それらを一つの横軸として学ぶことができました。ここから、大きな枠を作っていく必要があると思います。
 他方の軸では環境教育ということで、具体性とか個別文化ということが重視されました。そしてタイの慣習とか地域の文化、宗教など東洋的な考え方、他方、欧米、ドイツ、カナダの西洋的な考え方があろ、やはりそれぞれの国の人の感受性によって判断も変わってくるかと思いますけれども、やはり大きな枠組みのなかにおいてそれを考えていく必要があるだろうと思います。従って今までの価値基準で、正しいか間違っているかということだけでは、この「ゆるやか」な「大きな」倫理的な枠組みというのは出来ないのではないかと思います。それはその都度、大きな共通の場の中で、例えばこのような国際会議の場で与えれるのだというふうに私は思うんです。それを共通なもの、あるいは具体的なものにするためにはどうするかというこです。そのためには、正しい/間違っているということ以上に、あるいは両者をクロスさせるべきだと思うんです。ある考え方、行動が「健全sound」であるか「非健全unsound」であるかという基準を個々の人が持つ必要があるのではないかと思うのです。普通は「効率の良さが正義である」とか、いわゆる正/誤の考え方になります。従来の学問や価値基準はこうした考えに由来するのだと思うのですが、高度経済成長が、なるほど結果としては経済成長として「良い」というふうに考えられますが、それは「非健全」な発達であったのではないでしょうか。そういうところから言うと、もう一つの価値の基準としては、「健全」であるか「非健全」であるか、という概念を入れると、かなり緩やかな、そしてお互いが認め合うような環境倫理というものができるのではないかと思うのです。
 本当に長時間、みなさまがた先生がた、ありがとうございました。それぞれお考えのこと、感じられたことなどあるかと思いますが、本日の成果と致しまして、長時間であっても熱心に御静聴願ったということがその証左ではないかと思います。本当に先生方は遠路からお越し頂きまして、お疲れになられたと思いますが、これを機会に、またいろいろとお教え願いたいと思います。本当にありがとうございました。
 みなさま、パネリストの先生方に大きな拍手をお願いいたします。




国際シンポジウム実行委員会


大 会 長 中西典彦(甲南大学・学長)
実行委員長 谷口文章(甲南大学)
事務局長 鈴木善次(大阪教育大学)
○実行委員
吉沢英成(甲南大学・副学長)
潮海一雄(甲南大学・副学長)
環境学の基礎理論研究会(甲南大学・平生基金)・研究委員
環境学の教育推進研究会(甲南大学総合研究所)・研究委員
日本環境教育学会国際交流委員会
木俣美樹男(東京学芸大学)
中村 運 (甲南大学)
久武哲也(甲南大学)
中丸寛信(甲南大学)
村上温夫(甲南大学)
太田雅久(甲南大学)
藤本建夫(甲南大学)
中川米造(大阪大学名誉教授)
槌田 劭 (京都精華大学)
アンナ・フォード(甲南大学)
井上有一(奈良産業大学)
赤尾整志(グローバル環境文化研究所)
戸田耿介(兵庫県立人と自然の博物館)
福島 古(グローバル環境文化研究所)
菊地秦博(兵庫県庁)
藤川隆一郎(神戸市役所)
今井佐金吾(神戸市環境保健研究所)
小寺正明(日本環境教育学会・国際研究会)
石神由健(甲南大学)
天野雅夫(甲南大学)
福島志保(甲南大学)
鎌田靖子(甲南大学)
宮崎美佳(甲南大学)
○事務局
会計:鎌田靖子*(以下甲南大学)、紀 良美
渉外:福島志保*、木元 調、長田美代子、樫原利依
広報:天野雅夫*、松崎大
連絡係:宮崎美佳*、綱島俊介、松本剛知、杉山みどり[*印は責任者]
○主 催:甲南大学(甲南学園平生太郎科学助成金「環境学の基礎理論」)
     日本環境教育学会
○共 催:甲南大学総合研究所「環境学の教育推進研究会」
○後 援:環境庁、文部省、兵庫県、兵庫県教育委員会、神戸市、神戸市教育委員会
○会 場:甲南大学8号館(813教室)
○国際シンポジウム実行委員会事務局 〒658 神戸市東灘区岡本8丁目9−1
  甲南大学文学部 谷口文章研究室 TEL 078-431-4341(社会学科事務室)、FAX 0771-23-9464
○発行:国際・公開シンポジウム実行委員会事務局
○印刷:内外印刷 株式会社

<参考>

12/15 公開シンポジウム
「震災体験と人々の意識変革−人と自然の共生をめざして−」


 科学技術の粋を集めた現代都市、それはまさに現代文明の象徴です。しかし、1995年1月17日の阪神・淡路大震災はそのあり方を問い直す一つの機会となりました。自然に対する人々の意識にも変化が見られはじめています。地震などの自然現象と人間がうまく調和して共生するにはどうしたらよいか。この課題は、今日さまざまな形で現れている環境問題と共通しています。この公開シンポジウムは「人と自然との共生」という課題に対して、地質学、教育学、哲学、心理学などさまざまな角度から検討を加え、人々とその成果を共有することを目的とします。
鈴木善次(公開シンポジウム実行委員長)

プログラム
9:30 受付開始
10:00 第1部:公開研究発表「災害と環境教育」
001.藤岡達也(大阪府立大学大学院・大阪府立勝山高等学校)
「環境教育における自然災害教育の捉え方
−兵庫県南部地震が明確にした環境科学リテラシー育成の必要性−」
002.関口哲生・井上敏明(神戸海星女子学院大学)(兵庫県庁)
「阪神大震災における救助者の心理と人間性・
質問紙による心理調査分析から自然の恐怖と人間性を考える」
003.井上敏明・関口哲生(神戸海星女子学院大学)
「阪神大震災における救助者の心理と人間性・
面接調査を含めて考えるPTSDと防災教育」
004.広川恵一(西宮市 広川内科クリニック)
「被災地でのいのちと暮らし−主体の形成
−コミュニケーションとネットワークを見直す−」
12:00 昼食
13:00 第2部:「震災体験と人々の意識変革−人と自然の共生をめざして−」
挨拶 沼田 眞 氏(日本環境教育学会・学会長)
13:20 基調講演 中川米造氏(日本保健医療行動科学会・学会長)
    「災害と人間の危機行動」
14:10 ミニ・コンサート(甲南大学女声合唱団アモローゾ)
14:30 公開シンポジウム:「震災体験と人々の意識変革」
パネリスト:田中眞吾氏(神戸大学名誉教授・地理学)
    「神戸付近の自然環境の成り立ちと震災」
   辰巳武宏氏(神戸市立御影小学校・理科教育)
    「震災体験と小学生の意識変化−心のケアとビオトープ作り−」
   古川英治氏(北淡町立北淡西中学校・理科教育)
    「震災体験と中学生の意識変化−大震災を通しての環境教育の実践−」
   木内 功 氏(大阪府青少年活動財団・総務主任)
    「ボランティア活動から見た環境教育」
   谷口文章氏(甲南大学・哲学)
    「心的外傷を契機とした『人と自然の共生』への自覚」
コーディネーター:鈴木善次氏(大阪教育大学・理科教育)
17:00 閉会
○日 時:1996年12月15日(日) 10:00〜17:00
○主 催:日本環境教育学会、文部省(平成8年度科学研究費補助金B)
○会 場:神戸国際会議場(神戸ポートアイランド)
○定 員:360名
○会 費:無料
○申し込み・お問い合せ先:国際・公開シンポジウム実行委員会事務局
 〒658 神戸市東灘区岡本8丁目9−1 甲南大学文学部 谷口文章研究室
 TEL 078-431-4341(社会学科事務室)、FAX 0771-23-9464